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女性をターゲットにしたミントブルー

白砂の浜辺にゆったりうちよせる波。

エメラルドブルーの海に珊瑚礁が広がるおだやかな南の海。

そんなイメージから造られたのが「ミントブルー」です。

女性が行きたい海外旅行先はタヒチ、バリ、オアフ、ニューカレドニアなど南洋の島々。

やすらぎをもとめる人々のリゾートガムとして「ミントブルー」が生まれた訳はこうです。

ミント系のガムは今まで男性中心でした。

最近になって女性ドライバーも眠気醒ましにブラックブラックを食べるようになってはきましたが、「このミントおいしいね」というミントガムはなかったのです。

また非日常に食べるミントガムもありません。

日常で食べるガムは、「ガム食べる?」と相手に1枚差し出すようなコミュニケーションツールですから、ロをすっきりさせるミント系が多くなります。

そこで、日常・非日常を問わずに若い女性が食べるミント系ガムとして開発されたのが「ミントブルー」なのです。

ペパーミントをベースにレモン、フローラル、シトロンソーダをブレンド。

このミントブルーの登場で、長年親しまれてきた白い包装の『スペアミント』ガムは廃版になり、『フレッシュミント』も消えました。

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明治末期のガム事情 その2

同じ明治43年7月6日付の「読売新聞」に、「チゥイング=ガム」と称する広告が出ています。

廣瀬商会製で包装に「5タブレット」と見えるから、粒ガムだったのかもしれません。

関東総代理店「富士見商店」が広告を出しているようなので、製造元の廣瀬商会は関西あるいは関東以外にあると思われます。

定価は10銭・7銭・5銭というから、高価なものだったでしょう。

「電車、劇場、汽車、汽船、野外、遠足、登山、又は競技の際に口中に含まば清爽いうべからず」

・・・というコピーから、先の菓子新報の批判対象がこの製品かと推測できます。

もうひとつ、批判記事の対象と考えられるものに、新杵という菓子屋が発売したガムがあります。

菓子新報の明治40年1月1日号に「新杵商店訪問録」と題して『ゴムドロップ』の記事が掲載されています。

すでに明治40年頃はドロップは国産化されており、ロ中で嘗めるドロップがゴム状になったものとして、チューインガムを「ゴムドロップ」と表記するのもうなずけるところです。

ちなみにこの新杵の主人は、ドロップの機械を輸入し、サクマドロップの創始者の佐久間氏に「ドロップを作るように」と命じた人です。

「同店ではまた更にサンテーというロ中香錠を発売する。

右は極めて酸郁たる香料と、他の滋養分とで製造した丸剤であった。

ひとたびロに入るれば、口内の臭気を去り、精神を快活にして、欝を散ずるのみか、対話せる他人にまでその香気を伝えて、快慰を感ぜしむところの交際家の必要品である。

由来、欧米各国では、つとにチューインガムというものがあって、紳士淑女のロ中香料として常に懐中を放さないところのもので、その使用は煙草の代用で、欝を散じ、心神を爽快ならしめ、旅行等には最も必要のものである。

同店でかつて、このチューインガムの日本一手販売を成して来たが、更にこの方に改良を加えて、ついに自らサンテーを製造して発売するにいたった」


・・・という記述から、新杵が明治40年以前にガムを販売していたことがわかります。

リグレイガム上陸

大正5年には森下仁丹本舗がパテントだけとって、実際は仁丹ガムを製造しなかったという説や、ガム基材を輸入して試作品は作ったという説があります。

昭和34年の業界紙紙上にては、森下仁丹の森下安氏が、「先代(昭和18年死去)が大正5年に仁丹ガムを出した」と語っています。

昭和10年には江崎グリコと共同で試験的につくったそうです。

仁丹もガムもロの中を爽やかにする点では似かよっており、仁丹を開発した森下氏がガムに注目することはもつともでしょう。

さてリグレイですが、これは明治末期には輸入されていたという説もありますが、確実な日本進出時期は大正4年10月です。

先述のように大正5年4月に発売との説も広く流布されているようですが、大正4年10月12日の朝日新聞にはすでにリグレーの広告が出稿されているから、5年説は「大正5年4月に資本金5千円で法人設立」のことと混同していると思います。

また昭和11年には明治製菓がリグレーガムを輸入販売していました(社内資料による)。

一包5枚入りで10銭でした。


業界紙によればリグレーのガムが初輸入されたのは大正4年とされており・・・

「この年初めて、森永製菓を退社した多久島辰次氏によってリグレーチウインガムが輸入され大々的に宣伝を始めた」

と、輸入した方の名称まで挙げています。

リグレイガム上陸 その2

しかし、菓子新報の大正4年12月10日号では、「チウインガムの売れ行き如何」と題して、銀座尾張町の「ザ・ホスピタル・サプライ会社」を訪問した記事が掲載されており、ここの会社はアメリカからガムを輸入販売していたようです。

残念なことに固有名詞の記述がないのですが、これがリグレイである可能性もあります。

しかも「以前は他の会社で引き受けていましたが、今回本社が東洋の総代理店となりました」といっていることから、もしかしたらリグレイが明治末期には上陸していたのかもしれません。

当時は価格が高かったが学生によく売れていたそうで、東京より大阪の商人が買い付けにきたそうです。

大正5年8月、時事新報では、「リグレー式チウインガムと軍隊」と題し、「英仏両国の政府が毎月莫大なるリグレー式チウインガムを戦線暫壕内の将卒に供給して居る」と報じました。

このころすでにガムが軍事に使用されていたことがわかります。

リグレイが銀座新橋際に進出して盛んにガム宣伝をおこなっていたのは大正8年頃。

ガムブームの昭和30年代後半に出されていたガム同人誌「我無」誌に、希代の趣味人、池田文痴菴が「リグレー・チゥインガム発売の頃うら話や最初の広告」という一文を寄せています。

長くなりますが引用してみます。

「次は本筋の『リグレー・チウインガム』これが市場に現れたのも此の年(※著者注大正4年)であり、初めは縦半頁の特異の広告を以て進出してきた(池田稿本・菓子類新聞広告史大正元~5年)」

と、リグレー進出が大正4年であると池田氏も述べています。

リグレイガム上陸 その3

当時の人々は、新しい菓子のガム=ゴムと認識していたようです。

チューインガムが「ヂンカモ」と聞こえたのも面白いですよね。

「ウォーター」が「ワラ」と聞こえるようなものでしょうか。

続いて池田氏は、「リグレーのチウインガム広告」と題して自らの体験を語っています。

「私が東京銀座(いま銀座東8丁目通り)のリグレー社売出しの一包(半ダース6枚入り)5銭で求めたのは大正5年春と記憶が蘇って来た。

大正11年紀元節(2月11日)栄養菓子『グリコ一粒300米』のスローガンで豆広告のグリコが出現した。

この年のリグレーチゥインガムの宣伝猛烈を極めて毎日毎日の新聞紙上を飾った。

これが大正4年以来のリグレー広告のピークであった。

この広告文中の「煙草代用」は森永製菓松崎専務の考案キャッチフレーズで前年から広く使用されていたので「リグレー」は之れに『世界的な代用品』を補訂広告文とした。

この頃の韻を合わせた名文・・・

紳士淑女煙草代用、小児青年滋養菓子、と愈々東半球耳を聾する歓迎の声。

急霰の拍手……今日のコピーライターには想像もつかないばかりであろう。

この米国直輸の広告文が我が広告界を刺激したことこのガムのための『提供記事』をチョイチョイ書いたのも注意すべきである」

ちょっと意味がわかりかねる文章でありますが、『提供記事』とは今でいうところのメーカーとタイアップした「パブ記事」でしょう。

『ゴム菓子』と呼ばれていたガム

菓子ゴムならぬ「ゴム菓子」という呼称は、明治42年に登場しています。

これは菓子新報の明治42年10月10日号に、同紙が米ニューヨーク、エキセルショール、パブリッシングハウスの製菓の新刊書を訳したものです。

「米国の最新製菓法第十九護誤菓子(チャイクルペースト)」とあります。

チャイクルとはおそらく「天然チクル」のチクルの読みであると思われます。

製造法を引用しますが、これを見るとバター味の板ガムだったようです。


「これを製するには、護護チャイクル一ポンド、ザラメ糖ニポンド、グラコース一ポンド、キャラメル製造用のバター一ポンド等を原料となすを要し、まず護護チャイクルを極めて細片に切砕し、尚、熱を加えて柔軟となし置き、別にザラメ糖及びグラコースを混和して煮鍋に入れ、それに少量の水を加えて火にかけ、砂糖がまつたく液体になるまで撹拝しつつ煮沸し、バターを注加し、更に二百四十五度(華氏検温器)の
熱度に達するまで煮沸して火を去り、四五分時放置し、後かねて温軟体にせられたる護誤をその鍋に入れ、へらを以って充分にかき混ぜ、かつ練るべし。

しかも、この混合物が柔軟に過ぎると思えば、少量の精良なる粒状糖を混合し、その硬度を増加せしむべし。

かくして混合物を大理石板上に注出し、鋼鉄製の棒状をなせる器具(なるべく重量の多大なるを良しとす)を以って押し延ばし、その表裏両面には極めて優等なる粒状糖を撒布し、その充分に冷却したるを見れば、成形機(サイジングマシン)にかけて條片となし、後、更に小形に細切すべし」

『ゴム菓子』と呼ばれていたガム その2

『ゴム菓子』の名称は昭和4年頃までは続いていたようです。

まだ『チューインガム』という言葉に馴染みがないことは、実用新案書類からも判っています。

すなわち、『「ゴム」菓子製造法』(発明人森嘉吉、昭和4年5月)「原料「ゴム」(カウチョーク)を加熱し「アルミニューム」化合物を接着剤として加え、硫酸で硬くした後、消石灰にて酸分を中和。

これに香料や砂糖を加えて噛み菓子を製造する」

・・・というものや、『護誤菓子の製造方法』(発明者結城政勝、昭和4年10月)

「煮沸した「ヂロトン」に「ガッタパーチャ」、「チツクルガム」、「カルラゲン」を添加、水分を除去したものに酒石酸を加えてゴム質を軟化させ、乾燥させた後に砂糖、澱粉製飴、薄荷脳香料、「グリセリン」、「ゼラチン」を添加するゴム菓子」

などです。

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ガムが認識されだす大正年間

大正7年の井上十吉の「井上英和大辞典」にガムは、「樹脂質にして子ども等の噛むものかみ菓子」と出ています。

大正13年の紅玉堂「活用現代新語辞典」では、「ゴムと薄荷と砂糖を原料として作った煙草代用の菓子」とあります。

大正初期には、辞書に載るくらいには市民権を得てきたらしいですね。

大正に入って、京都の笹友商店がシガレット形の模造品ガムを作りますが失敗したとも伝えられていますが、これは製造を失敗したのか、販売が時期尚早だったかは不明。

大阪では小林禎二が苦心を重ねましたが、何年経っても実らなかったといいます。

大正7年11月、東京菓子新聞は米国ハーシー社を紹介し、「近ごろは更にチウインガムの製造をも開始している」と報じています。

大正9年6月、森永はチウインガムを製造開始しました。

大正15年には明治製菓「ガムドロップ」、森永製菓「ガムドロップス」が相次いで発売されていますが、これがガムであるかどうか不明です。

というのも、両社とも社史の中で特にこれがガムだとはいっていないのです。

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